ジンジャーエール

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10万円給付が40万人分未給付な件について政治とは何かを考える

昨年の全国的な緊急事態宣言にあわせて支給が決定された10万円の定額給付金について、対象者だけど申請がなされなったため未支給になっているものが40万人分あるというニュースが流れた。

 

これについて40万人ということは日本全国の人口と比して99.7%に行き渡っているので施策としては大成功じゃないか、という論調がある。未支給は0.3%。計測誤差の範囲だという主張だ。これについて考えてみたい。

 

報道では40万人が未支給という数字が強調されていた。それに対して施策は成功だと主張する人は「率」を見るべきだ、という。40万人というと大きな数字に見えるが率でいえば人口の0.3%じゃないかというのだ。その根底にあるのは「だからセンセーショナルに煽るような報道をするんじゃない」というマスゴミ論であったりする。実際99.7%に行き渡ったことをもって「日本すごい」「官僚すごい」となぜか自分を政府に一体化させて悦に入る者もSNSでは見受けられた。

 

しかしこれってどうなんだろう。たとえば製品製造で不良品率が0.3%であれば優秀といえるだろう。企業経営であれば0.3%の群についてそこまでシビアに考えなくてもよいかもしれない。クレーム発生率が0.3%とか返品率が0.3%とか。この場合は0.3%はいったん脇に置いて物事を進めてもまあ大丈夫かもしれない。

 

しかしながらこれが政治ということになるとどうだろうか。本当に0.3%の漏れた人を計測誤差の範囲だから100%を目指さなくても良い、と言い切れるのだろうか。施策は大成功だと肩で風を切れるだろうか。僕はそうは思わない。

 

先日「オードリー・タン(唐鳳) デジタルとAIの未来を語る」を読んだ。とても面白い本だった。台湾のデジタル担当政務委員の唐鳳氏の初めての著書だ。本の中でこれからの社会改革に言及されている。AIを活用した社会改革を実現するうえで唐鳳氏は一つの理念をベースするべきだと主張している。それは「一人も置き去りにしない」ということだ。これは至極まっとうな見解だ。99.7%補足したから成功だ。問題ない。日本すごい、というのは政治の姿勢として間違っている。

 

なぜ0.3%を放置してよいと思えるのだろうか。全く不思議だ。もしも自分が0.3%に入ったとしたらその時はどんな顔をするのだろう。一部を置き去りにしてもそれは仕方ない、0.3%の人は自己責任だなんて態度は国家の在り方としては失格だ。なのにそれを是とする人間が一定数いるというのがとても怖い。

 

0.3%という数値に置き換えると途端に顔が見えなくなる。そこに生身の人間感はない。困っている人が現実にいるんだというのが見えにくくなる。僕は、だからこそマスコミは40万人という人の存在を感じられる数字ベースで報じたのだと想像している。私企業なら0.3%の顧客をスルーすることもできる。しかし国家がそうあってはならないし、国民自身がそうした発想を持つべきではない。自分はたまたま助かっているだけであって、同じ日本には困っている人たちがいるということは忘れるべきではない。

 

0.3%、40万人を計測誤差として置き去りにする社会と一人も置き去りにしない社会。どちらのほうが住みやすい社会か。答えは明白だ。

 

オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る

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