少々古い話題ではありますが…。
ベイビーハラスメント…。ベビーハラスメントじゃなくてベイビーというあたりにいささかキザな感じを受けます。ってそれはどうでもいいのですが。
ちなみにこの記事に対する解説としてはうさるさん(id:saiusaruzzz)の秀逸な記事があります。ここで書かれていることがほぼすべてだと思います。
さてここ最近、量産されている〇〇ハラスメントというものについてちょっと考えさせられます。もちろん〇〇ハラスメントの大元はセクシャル・ハラスメントです。この言葉が一般的になってからもう25年ほどでしょうか。
ハラスメントに対する大きな誤解
実はこのセクハラに関するある種の誤解がその後の〇〇ハラスメント量産に大きく影響しています。セクハラについて多くの人が「セクハラとは、受けた側がセクハラと感じたらセクハラとして成立する」と思っているのではないでしょうか。これによりセクハラと受け取られないように男性はその行動に多くの制約がかけられることになっています(同時にネットの女性叩きの一因にもなっています)。しかしこれについては実際は半分正しくて半分間違っているのです。
セクハラはいつ成立するのか
例えば職場で女性従業員が「上司からセクハラを受けました」と人事部に相談をしたとします。この時点では実のところセクハラが完全に成立しているわけではありません。女性従業員からすれば「上司から自分が不快に感じる言動を受けた」時点でセクハラの可能性があるのではないかとして相談することができます。そして人事部は相談を受けたからにはセクハラの事実があるのかないのかの調査をしなければなりません。つまり苦情の申し立てがあった時点で“セクハラの疑いがある事案”として動き出すのです。女性従業員からすると性的な嫌がらせを受けたと感じたというのは、セクハラ事案として訴える権利を持っているということになります。これが拡大解釈されて「セクハラは受けた側がセクハラと感じたら成立する」ということになっているのが現状です。当然、セクハラをしたとされる側、この例でいうと上司には反論する権利があります。仮に会社が弁明の機会を与えないままなんらかの懲戒処分を下してしまえばこの上司は不当な懲戒処分を受けたとして会社を訴えることができます。となると本当にセクハラかどうかについての認定は最終的に裁判で行うことになります。セクハラとして成立するかどうかについては裁判の結果を待たなくてはなりません。だから「セクハラは受けた側がそう感じたら成立する」というのは訴える権利を持つという点で半分正しいのだけれども確定はしてない(女性従業員の誤解や感情のもつれという場合もあるから)ものでもあるから半分は間違っているのです。
ハラスメント事情
ではなぜ「セクハラは受けた側がそう感じたら成立する」というのが人口に膾炙しているのでしょうか。それはその方がインパクトがあるから。単純ですがそれに尽きると思います。いやいや相手側の反論があって〜だの裁判をして〜だのの手続きを踏んだらセクハラの被害にあったことを申し立てるのに二の足を踏んでしまう。その意味ではこれまで大半が泣き寝入りをしてきたことも事実なので声を上げやすい状況を作るのに寄与したという点では一定の意義は感じます。ただ本質を考えることや丁寧な検証作業をすっ飛ばすことにつながるという点では少々短絡的でもあります。元記事でも筆者が不快に思う公共の場での赤ちゃんの泣き声を有無を言わさず「ハラスメント」と断じています。そこに至る過程を一応は考察していますがそれでも「外出をもう1年我慢すればいいのに」などとハラスメントとして成立していることを前提に話が進められています。このような独り善がりな考え方に陥るのもひとえに「ハラスメントは受けた側が感じたら成立する」という誤ったイメージが独り歩きしていることに起因しているのではないかと思います。筆者もこの俗説を無邪気に信じる一人なのでしょう。
ハラスメントを決めるもの
ではハラスメントはどのように認定されるのかというと、個別の事情に左右される点もありますが、基本的には社会通念上許容され得るものかどうか、という所に判断の主軸が置かれるものです。セクハラで例を考えます。
お触り
一般的にいって他人の体を本人の許可なしにあるいは本人が拒否でない状況を作ったうえで触るのは常識とは言えず社会通念上認められるものではないでしょう。よってセクハラ。
職場に裸の女性が写ったポスターを貼る
この類のポスターを掲示することが一般的かどうか。まぁ普通の会社ではあまり見ないでしょう。うちの会社ではこうだから、というのは通用しません。よってセクハラ。
「彼氏いるの?」「(既婚者に向かって)子づくりしてる?」
これらの発言を不快に感じる女性はいると思います。ただ、発言する側の意図がどんなものなのか、発言の頻度などによって変わります。性的な興味を持って聞いてるのであれば別ですが単に会話のなかの一つの話題であればどうでしょう。社会常識として「そういうことを聞いてはいけない」とまでのコンセンサスはまだないような気がしますが。となると(発言の背景を一切無視して言葉そのものだけで判断すると)これらの発言はセクハラ(=不法行為)として認定されない可能性が結構あります。
ベイビーハラスメントは社会的な常識か
元記事に対してはもちろん賛同する意見もありますが、否定的な意見も同様に、あるいはそれ以上に多いです。つまり赤ちゃんを外出させることや(乳幼児禁止ではない)カフェに連れていくこと、飛行機や新幹線に乗せること自体がハラスメントとして成立していると考えない人の方が多い。社会通念上は許容されるものという結論に至ります。そうなると筆者が単に自分が気に入らない他人の行動を制限したいだけのワガママベイビーということになってしまいます。元記事はどちらかというと赤ちゃんの泣き声そのものよりも泣き止ませない親に対しての意見のようですが、では例えばカフェでおしゃべり(先日カフェで隣の席の大学生風の若い男性が彼女?に「トヨタ車ってなんていうか個性的じゃないんだよね。面白味がないというか」といかにもネットで拾ったかのような話をしていてコーヒーを吹き出しそうになった。どう見てもお前の年齢ではそんなに語れるほど多くの車種を乗り継いでないだろ)をするのはどうでしょう?あるいはモバイルノートで熱心にタイピングをしている音(カタカタカタカタ…ッターーン!)は?飛行機の中のいびき(+面白寝言つき)はどうでしょう?機内食を食べているときの隣の席のヤツがクチャラー(ほのかな殺意)だったら?なかにはハラスメントとして社会的合意が形成されているものもあるでしょうが大抵は個人の感想レベルだったりします。それらをいちいち「ハラスメントだ!」と怒っても仕方がない。なぜなら自分もどこかで誰かに意図せぬハラスメントを行っている可能性があるからです。もしも「自分は一切他人に迷惑をかけてない完璧な人間だ!」と考えている人がいたらその人はたぶんビョーキです。病院に行きましょう。あるいは「俺の行うことはハラスメントには当たらない!」と主張するのでしょうか?
ハラスメント・ハラスメント
実はこういう人が一番ハラスメントを行いやすいのです。例えばパワハラ。業務上の必要性を越えて執拗なパワハラを行うのは完璧主義者であったり自分を過大評価している人が多いです。モラハラも同様です。自分の非は認めないが他人の些細なことに関して攻撃する。今回の筆者のようなものは「自分にとって不快なことをしている連中はハラスメントだから今すぐそれをヤメロ」ハラスメントですね。もちろん僕だって公共の場で泣きわめいている赤ちゃん(あるいは騒いでいる幼児)を全くあやさない親はどうかと思うよ。だからといってすべてを十把一絡げにしてハラスメントだ!と決めつけてしまうのは、例えばアフィリエイトをやっているブロガーは全部詐欺師だ!と言うのと同じでしょう。んなわけないやん。
ハラスメントというのは便利な言葉だからこれからも〇〇ハラスメントというのはどんどん量産されると思います。ただ残念なことに元々は嫌がらせを受けている自分の身を守るための防具だった〇〇ハラスメントがいつしか自分の気に入らない他人を攻撃するための武器になってしまっています。ハラスメントとはそのように気に食わない人間を撃退する道具でも自分の都合のよい社会にするための武器でもありません。もし泣きわめいている赤ちゃんをほったらかしにするのがベイビーハラスメントだというのであれば「ほったらかし」というのはどういう状態を言うのか、何分以上でほったらかし状態と判定されるのか、泣きわめく音量はどの程度から迷惑になるのか、あやすために音の出るおもちゃ(赤ちゃんが結構喜ぶ)の使用の可否はなど色々と決めなければならないでしょう。それも決めずにまた個々の事情も斟酌せずに曖昧なまま、泣いている赤ちゃんをあやさなかったら即ハラスメントだ、と決めつけるのはただの感情論であってとても理性的な振る舞いとは言えないし、またそういうのが一般的な社会というのはとても怖い。が、記事への反応をみるとまだそういう社会の到来は先の話だな、というのも感じられて安堵しました。
以上です。おわり。