ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

河野太郎ブロック担当大臣のどうしようもない対話軽視の姿勢について考える

少しでも自分に対して批判的な意見を目にするとすぐにツイッターでブロックする。子どもですか?河野太郎ブロック担当大臣のことだ。かくいう僕のツイッターアカウントも河野太郎にブロックされている。

 

なぜ河野太郎はこれほどまでにブロックしたがりなんだろうか?それほどメンタルが弱いとは思えない。何しろ脱原発の考え我だったのに、大臣ポストを用意されたら簡単に宗旨替えするくらいには図太い。

 

そんな河野太郎がまたもや批判されている。それはモデルナのワクチンの確保量が実は当所公表していた量の1/3だったこと、しかもそのことは今を遡る2か月以上前に認識していたのになんらアナウンスせずとにかく摂取スピードを上げろと現場に迫り、結果としてスケジュールを狂わせ混乱させたからだ。ただでさえ医療現場は混乱し疲弊している。ドッグランに犬を連れていき「さあ思い切り走ってこい!」とGOを出しながら、さてこそと勢いよく走り出した犬の尻尾をグイっと引っ張るようなものである。

 

噛みつかれて当然である。

 

そして多くの国民に対して混乱を招いたこの失政について丁寧に説明するどころか「知の崩壊?」などという、どう考えても性格の悪さしか感じないタイトルのブログで自身に対する批判的意見に反論している。またその反論の中身はひどいものだった。

 

難しいオペレーションなんだから、当初予定の見込みが外れることはあるだろう。それは良い。仕方ない。しかし予定が狂ったんだったらそれを言わんかい!の世界です。それを隠したまま突っ走るのは悪意があると思われても当然ではないか。

 

またブログの最後の嫌みが実に情けない。河野太郎がブログで引用している「自身を批判している」相手は大学教授のようだ。

 

学生達にクリティカルシンキングとはなにか、ネットリテラシーとはなにか、身をもって教えていらっしゃるのでしょうか。

 (「衆議院議員 河野太郎公式サイト」より)

 

国務大臣という要職に在りながら、自分と意見の異なる主権者たる国民をいとも簡単にブロックして恥じない河野太郎がネットリテラシーを語るのは面白い。もうR-1出て一回戦で落ちたらいいのに、と思わせてくれる。実に見事だ。

 

さらに問題なのは「クリティカルシンキングとはなにか~」の下り。クリシンについてここでくどくど語ることもないが、ロジシンでもクリシンでもその他のなんちゃらシンキングでも重要なのは思考そのものではない。重要なのは思考した結果を他者とシェアすることだ。我々は1人で生きているのではない。社会がある。組織がある。家族がある。人は誰しも何らかの共同体に属している以上、そこには対話が存在する。

 

いや、自分は完璧に一人だ、という人がいるかもしれない。人里離れた山奥か絶海の孤島で自給自足生活を送っている。共同体などない。そういう人もいるかもしれない。それでも自分自身とは対話できる。自分がこの世界に存在していることの証明として、正気を保っていられるために自分と対話をすることはとても大事だ。まあ突き詰めすぎると宗教か哲学と化すけど。

 

どれだけ知識があろうが、どれだけ論理的思考力が高かろうが、どれだけ批判的思考ができようが対話ができなければ何の意味もないと思う。ただの独りよがりにすぎない。

 

その独りよがりを何年も繰り返しているのが河野太郎であり、現在の政権与党である。なぜ彼らはそこまで対話を拒むのか。国会や記者会見をみた人にはお馴染みの光景がある。野党議員や記者の質問にまともに応えようとせず、同じ文言を繰り返したり論点をずらして混ぜ返したりする首相の姿だ。他の大臣や官僚もそういった答弁を繰り返している。

 

彼らはなぜこれほどまでに対話を軽視するのか。国民は対話するに値しないと考えているのか、もしくは彼ら自身が対話のできない無能なのか。あるいはその両方か。

 

対話がない、情報が一方通行で運ばれる組織がどんなものか。多くの人は息が詰まる、力を発揮しにくい、メンバー間の信頼が育たない、伸びしろを感じないなどネガティブな印象を持つのではないだろうか。実際こうした特徴のある組織はとても生産性の低い組織だ。人は定着しないし、良い製品・サービスも生まれない。無駄な会議が多い。昔のやり方にやたらとこだわるとか。

 

政治のトップが全体的にこのような感じである。そりゃ日本から活気がなくなるわけだ。付け焼刃のオリンピック程度で活気が出るほど浅い問題じゃない。対話や共有を拒む組織に未来はない。