ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

会って謝罪することについて考える

加害者はなぜ「会って謝罪したい」と言うのだろうか?

 

会うことが謝罪を構成する要素の一員であり、誠意の現れと考えているとしか思えない。「ねえこれから会わない?(*´Д`)ハァハァ」みたいな。テレクラか。電話や手紙では我慢できない!とか。思春期の恋する乙女なら可憐だがいい大人が対面は正義!面会は誠意!というのはちょっと。しかもそもそもでいうとこれほど被害者の感情を無視した話もないし危険な考えだとも思う。

 

もし被害者から会うことを拒否されたときに「ああそうだよな。僕にもう会いたくもないと思わせるほどひどいことをしてしまったんだ」とより深く罪を内省できるなら良い。リフレクションして相手のリアクションをせっせとコレクション。

 

しかしこれを会いたくない=これ以上自分にはどうしようもない=問題は解決した、とまことに自分に都合の良い脳内変換をする人もいるだろう。あるいは会ってやると言ってるのにそれを拒否するなんてけしからん、とこれまた不思議なことに被害者意識を持つ人がいないとも限らない。

 

だから直接会って謝罪をしたい、なんていうのはとても自分勝手な言い分なんだ。本来会うことは謝罪のための手段の一つであるはずだ。それを会うこと自体を謝罪のメニューに組み込むからややこしくなる。

 

それに被害者からしたら、加害者と顔を合わせるなんて恐怖でしかない場合もある。本当に反省しているかどうかなんて、普通の人には見分けるのは至難の業だ。どれだけ反省していてもそれが過不足なく相手に伝わるはずだ、なんていうのは都合の良い期待をしすぎだ。

 

だいたい人に加害をしたときに、そのことを許すかどうかは被害者次第なのだ。決定権は加害者にはない。会う会わないを決めるのも、許す許さないを決めるのも被害者の権限だ。

 

だから安易に会って謝罪したいというのは、被害者の権限を奪おうとするものであり過去に奪っただけでは足りずまだ奪いに来るかと思われても仕方ないのではないか。搾取気分が抜けてないんだろうか。松倉勝家か。

 

誠意の見せ方なんていうのは人それぞれでありどれが正解なんていうのはないだろう。同様に許しかたについても千差万別で、何をもって許すかなんて被害を受けた人の気持ちの問題だ。加害者も含めて他人が介在すべきことじゃない。

 

まああれだ。小山田圭吾氏が本当に許しを乞うのであればオリンピック開会式で自身が簀巻きにされて垂直落下式バックドロップを受けたのち、ナイフとフォークで優雅にウンコを食べながらオナニーする動画を流せばいいんじゃね?それなら被害者の気持ちも少しは晴れるかもしれない。本当にそんなことしたらオリンピック史上に残る伝説にもなれるかもね。露悪趣味の鬼畜ムーブならそれくらいやってほしいものである。