ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

カウンセラーにご用心

 いい加減こういうゴミみたいなやつを駆逐する方法はないのかね。

(注意!)当該ブログ自体はゴミなのでわざわざ日曜日の貴重な時間を浪費して読む

     必要はございません。

 

このエセカウンセラーのブログタイトルは「心が、風になる」っていうんだけど、あれだよね「心が、空(から)になる」の方がしっくりくる。

 

「死んでもいいよ」っていうのは一体どういう理屈なんだろうか。全く理解ができない。僕はカウンセラーでもコーチでもないけど、本職の人たちはもっと怒った方がいいよ。カウンセラーは胡散臭いものっていう評判を撒き散らしているようなものだ。

取り返しのつかない失敗は絶対に避けるべし!

人生でもビジネスでもトライアンドエラーの繰り返しだ。失敗を恐れて何もしない人は何事も達成できないと思っている。だから本当はビジネス本でも成功例ではなく失敗例の方を読みたい。失敗こそ学びや成長の絶好の機会。

 

しかしこれは再起可能な失敗に限る。失敗したら二度と立ち上がれないような失敗はむしろしてはいけない。これは鉄則のはずである。やり直しが効くからこそ成長の機会となる。

取り返しのつかない失敗を勧めるカウンセラー

いじめでの自殺の話題がワイドショーで取り上げられるとさ、
コメンテイターが、時々こう言うよね。
 
「せめて、親御さんに話していれば」って。
 
 
 
正直、
 
はあ?
 
と、思う。
 
 
 
分かってないなぁ。
 
とも思う。

 

 (心屋仁之助「心が、風になる」より)

僕もワイドショーのコメンテーターのいうことが常に正しいとは思っていない。

自分がいじめられているということを一番知られたくない相手が、親じゃないか。」 

 そういった気持ちはわかる。上手にSOSを出せない人は子供でも大人でも、いる。

「心配をかけたくない」

「恥ずかしい」

「怒られるんじゃないか」

など、自分を大切にしようとして、結果として自分を一番粗末に扱ってしまうときがある。

 

しかしだからと言ってな、

死んでもいいよ
叩いてもいいよ

 

 いいわけないだろ。バカかよ。いや本当に怒りしか湧かないね。

「逃げろ!」が有効なとき

例えば学校でいじめに遭っているとき。

例えば会社でパワハラを受けているとき。

あるいは“ぼんやりとした不安”に苛まれた時でもいい。

 

こういう場合は逃げていい。学校なら転校するとか、休学するとか、義務教育終了しているなら働きに出てもいい。経済的に許す状況であればしばらくのんびりするのもいいだろう。

 

会社だってそう。仕事は大事だ。でも人生は仕事だけじゃない。仕事もこの世に一つではない。この世に一つなのは自分の命のほうだ。転職でも休職でも、また多少の蓄えがあるならしばらくニートしても旅をしてもいいと思う。

 

学校や会社から逃げてもいいのは、他に選択可能な道があるからだ。やり直すことができるのが前提だ。

 

それなのに心屋仁之助とかいうエセカウンセラーは「死んでもいい」などという再起不可能な、絶対に選んではいけない選択肢を提示している。これは絶対にやってはいけないことではないか。

 

もしそれを真に受けてカウンセリングをした相手が死を選んでしまったらどうするのだろうか。「本当に死ぬとは思ってなかった」「自己責任」というのだろうか。もしそう考えているのなら今すぐカウンセラーをやめて本物のカウンセラーにカウンセリングを受けた方がいい。もしくは弁護士に「自分の発言は法的に大丈夫っすかね」と相談することをお勧めするね。

 

こういうこと言うと
ヒステリックに反応するひともいるけど
 
それを
「ダメ」「絶対ダメ」「逃げるな」
 
って言ってて
 
どれだけ、いま苦しんでるひとを
助けられるのか
 
聴いてみたいわ。

 

 僕も苦しんでる人に「死んでもいいよ」って言って本当に助けられるのか聴いてみたいわ。死っていうのは逃げることではない。死っていうのは終わりだ。

 

よく「死んだら負け」みたいなことを言う人もいるけど、死んだら負けなのではない。死んだら終わりなんだ。二度と取り返しがつかないようなことを安易に勧めるんじゃない。バカちんが。

「親に知られたくない」時はどうすれば良いのか

自死を考えるほど追い詰められている。でも親に知られたくない。そんな時のアドバイスが「死んでもいいよ」なはずはない。

 

どうして親に話しができないのか。

話すことをためらう理由は何か?

直接話す以外の手段を取ることは可能か?

もし話したらどんな反応があるか。それは好意的か否定的か。

親に頼ることができない場合、他に頼れる存在はいないか。

 

選択肢は実際はいろいろある。この時に絶対に外してはならない前提だけ守ろう。それは生きるということ。これが唯一絶対の条件だ。それ以外のことは戦うからひたすら逃げるまでどれでも好きなものを選べばいい。

 

では親の立場の場合ではどうだろうか。

子供が話してくれない。

 

なぜ子供は話してくれないのか。

話しにくい雰囲気を作ってないか。

話をする時間をどうやったら作れるか。

どうすれば子供は悩みを打ち明けてくれるか。

公平公正に話を聞く準備はできているか。

判断や助言をするにあたって親は子供の味方であることを前提に(つまり自分自身の世間体などを考慮せずに)することができるか。

 

親なら徹底的に考えぬくべきだ。それが親の役目だ。

もし親が無理なら先生でも友人でも近所のじいちゃんばあちゃんでも、会社員なら上司や同僚、学生時代の同級生など信頼できる人間を探そう。不幸にもそういった存在がいないのであれば公的機関に駆け込もう。

「死んでもいい」なんていうエセカウンセラーにだけは引っかかるなよ。

カウンセリングという名の宗教

助けを求めている人に対して「死んでもいいよ」というのは一体どういうわけなのだろうか。実際に「死んでもいいよ」って言われて本当に死んでしまう人は稀であろう。

 

もちろん心屋仁之助だってそれは承知の助だろうね。狙いは「死んでもいいよ」と言われた方を心理的にコントロールすることにある。

 

「死んでもいいよ」と言われれば、特に精神的に弱っている人は「自分には選択肢は死ぬことしかないのか」という気持ちにさせられる。でも大抵の人にとって死ぬのは嫌だ。そこでちょっと優しい言葉を投げかける。落として疑心暗鬼にさせ、最後に抱擁。思考を奪って何でもいうことを聞く信者の出来上がり!

 

…マジでふざけんなよ。

 

はっきりいっとくが、この手のやたら過激なことを言ったり極論を言ったり人を不安にさせるようなことを言う連中は「人のため」に何かしようなんて思ってないから。全部自分のためです。お金目的だったり、影響力を行使したかったりそういう邪な目的で人を食い物にして何とも思わない人間というのがこの世にはいる。

 

騙されないために、疑う習慣を身につけよう。

「死んでもいいよ」と言われたら「なぜこいつはこんなことを言うのか?」を考えよう。脳を休ませてはいけない。それが奴らの狙いだから。不安になる必要はない。なぜならよくわからないカウンセラー程度が「死んでもいいよ」と言ったくらいで世界は崩壊したりしないから。人間というのはそこまで弱くないから。人間にはもっと可能性があるから。

 

人間は考える葦である(パスカル フランスの哲学者、数学者)