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辛口エール

説明責任という言葉について思うこと

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不思議な話である。

舛添東京都知事政治資金の不適正な支出についての報道を大筋で認める会見を開いた。その上で辞任の可能性については否定した。曰く「説明責任は果たした」のでということらしい。

もう一度いうが不思議な話だ。

僕は説明責任とは何らかの不祥事があった際に原因は何であるかとか、そのことがもたらす影響は何かとか、あるいは当事者としてどのような責任をとるのかということを明らかにする事で善後策を講じ、あるいはその善後策が有効なものとなりうるかの判断の指針とするために利害関係者に事情を説明することだと思っていた。

つまそり説明責任を果たすということは何らかの問題が起きた場合に、その解決や再発防止に向けての最初の一歩でありそれ自体が目的となるのはおかしな話だ。公益のため説明する責任があるということで、行為の責任をとるということとはまた別の話だ。政治学者である舛添都知事がそのことを知らないはずがない。

 

舛添都知事は会計処理上のミスと言っているが、そんなことを信じる人間はほとんどいない。例えば百円単位千円単位の少額の支出であれば会計処理をミスすることはある。まぁ1万円単位くらいまでなら“うっかり”間違えることはあるかもしれない。しかし数十万円の領収書を前にして「これは何の支出だろう」「これは経費で落とせるのか」といった疑問を持たない経理の人間はいないだろう。少なくとも確認は取るはずだ。この場合確認を取る相手は都知事だ。だから彼が知らなかったはずはない。そもそも大臣まで務めた人間だ。政治の世界に入って日が浅いわけでもあるまいしこのような支出は“見解の相違”で済まされるものではないというのは過去の事例からよく知っているはずである。

 

で、結局舛添都知事はどうするんだろう。

会見を開いて説明する事が責任をとることだと思ってるんだろうか。でもそれはただ単に不明な点を明らかにして「すまんね」と言っただけに過ぎない。説明責任という言葉が一般的になるにつれて説明しさえすればそれで終わり、問題は解決と考えてるんじゃないかと思われる事例がまま見られる。何の責任を果たさずとも責任を果たした気にしてくれる便利な言葉と捉えてるんだろうか。

普通地位が上がれば言葉の重みも増すところだが、今は地位が高い人間の言葉がどんどん軽くなっている。これでは下の者に「自分の言葉に責任を持て」などと言っても「お前はどうなんだ」と返されるのがオチである。結果、日本の言葉はますます軽くなる。全く悪循環だ。