ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

共謀罪成立

共謀罪が成立しました。

十分な審議がなされたとは思えないし、それ以前に僕たち国民に丁寧に説明があったとも思えません。

確かにテロ対策は必要です。日本も決して対岸の火事として眺めていればいいわけではないのはよくわかります。

しかしそうであるならなおさら国民にもっとちゃんと説明をする必要があるのではないでしょうか。

 

一橋大学で作家の百田尚樹の講演がヘイターであることを主な要因として反対に遭い中止となりました。当の百田尚樹をはじめ彼の主張に日頃から賛同している“右寄り”の人たちは「表現の自由を奪うな!」「言論弾圧だ!」と声を荒げています。

一方で百田尚樹は以前「沖縄の新聞は2つくらい潰したらいい」とか都知事選の時に田母神俊雄の応援演説で他の候補者を「バカ、キチ〇イ」と罵っていました。

自分たちと意見の合わない人間の表現の自由は認めず言論弾圧も辞さないが、自分の表現の自由についてはうるさいとは自分に甘く他人に厳しいネトウヨの典型です。が、なにより何が表現の自由で何が言論弾圧かはオレたちが決める!と言っているようで気持ち悪いです。

自分たちの主張が権力サイドに近いという驕りがあるのでしょう。

 

共謀罪の「一般人かどうかは権力サイドが恣意的に決める」というのに共通した考え方だと思います。

なにが良いか悪いかを一方的に決めることができる。自分たちにとって気に入らない存在には表現の自由を認めないし、罪に問うこともできる。

そんな世の中になってきています。

 

要は他人の心の中まで権力でコントロールしようということでしょう。

なんだ、ただの独裁国家か。

 

と思ったら義家弘介文部科学副大臣が加計学園問題を念頭に置いて「事件性がないのに内部文書を漏らすのは守秘義務違反に当たり処分の対象になる」と宣言しました。

恐怖政治を邁進する気満々ですね。

しかし権力者と近しい人間に特別な便宜が図られれば公平な競争を害するし、そうなれば問題を公にするのは公益に適うと思うのですが、権力サイドからすればそもそも事件性があるかどうかは自分たちが決める、ということなのでしょうか。

金王朝もびっくりです。

 

いま日本からは急速に自由という言葉が失われようとしています。

本来なら権力が暴走しないように監視するはずのメディアもむしろ一部のところー具体的に言えば読売新聞とか産経新聞ーは御用メディアとして逆に国民を監視する側に立っているかのような振る舞いです。 

 

これからの日本は監視員付きのプールでチャプチャプと水遊びをするがごときものです。

でも僕は海を泳ぎたい。