いやほんと唖然としたよ。このあいだ子供が通ってる保育園の運動会があったったのね。
んで、運動会のプログラムがなんか和紙みたいな紙質のやつでできていて嫌な予感したんだ。なんかさ、やけに和風を前面に押し出す感じ?んー、去年まではそんな感じじゃなかったんだけどなぁ。
プログラムの中を読むと、競技の説明とともになんか伝統だの家族だの感謝だのそーいうのを取り戻しましょーよ的なことが書いてあった。えええええまじかよ。運動会のプログラムにだよ?
プログラムを書け。
もっかい言うが、運動会のプログラムだろ。余計な感傷入れてんじゃねーよ。よーわからんふわっとした美辞麗句っぽいものを並べるなんてアレじゃん。似非科学とか似非伝統みたいな。ここはお江戸の商家か。いやどうみても現代日本の保育園だろ。わああああああ勘弁してちょ。
チーム対抗リレーの説明には「クラスのみんながバトンという名の気持ちをつないで走る」だの「順位決定は個人ではなく組」とある。うへ。
そして嫌な予感的中。
年長さんは組体操をすることになっていた。正面にはしかつめらしい顔をした体育の先生的なにーちゃん(推定20代後半)が。体操教室で毎週指導に来ている人らしい。そしてにーちゃんの前にはおきまりの和太鼓。ドドンカッカッドンドンドン。
なんとなく会場の雰囲気も張り詰めたものになる。
なんで?張り詰める必要あるの?たかが保育園の運動会だよ。楽しめよ。肩の力抜け。デビッドカッパーフィールドのショーでもあるまいし。張り詰めんな。子供だぞ。笑顔はどこにいった。
そしていくつかのよくわからない演目。手を揃えて脚を揃えて心を揃えて。規律。規範。統制。命令の遂行は順調だ。
来た。最後から2番目の演目はピラミッド。悪名高いピラミッドだ。別にクフ王の生前の評判が悪かったわけではない。日本のピラミッドの話だ。熊山遺跡ではない。
組体操のピラミッド。
保育園のピラミッドは3段式で、最後に崩すこともしない。しかしまだまだ体が出来上がってない幼児にあのようなことをさせる意味がどれだけあるのだろうか。効能と弊害を秤にかければ弊害の方が大きいと思うのはピラミッドの素人としての浅はかな見解に過ぎないのだろうか?
ちなみに組体操のピラミッド。なぜ最後に崩すのだろうか。あれは不思議だ。なぜなら本場のエジプトのピラミッドは悠久の時を経て今も地上に鎮座する。ケンタッキーフライドチキンはいつか骨だけになるかもしれないが、ピラミッドはずっとある。
なのに日本の組体操のピラミッドは最後に崩す。嗚呼。世界の七不思議に加えてくれないか。
かくいう僕も高校時代の体育祭でピラミッドの巨石の一つになった。小柄な僕に課せられたのは、上から2段目。基礎工事はとうに完了。残すは最後の仕上げのみ。そんなポジション。で、これ結構高い。下を見る余裕はないが、余裕があったって下を見たいとはあまり思わない。
高校生が作るピラミッド()は当然のように最後に崩壊する。僕も崩壊した。ラッキーだったのは上から2番目というポジションを得ていたことだ。ちなみに現実社会では下から数えた方が早いポジションにいるので、組体操で得られた規律だの規範だのは全く無意味だったのでは…?という体験を得ることができた。まあ僕の社会的地位に関しては僕個人の資質に左右されていることが大きいであろうことは薄々感じてはいるけど。
話を現代保育園における幼児教育に戻す。
組体操というのは全く無意味だと思う。そもそもあれは体操なのだろうか。体操というのは、僕はラジオ体操のようなストレッチみたいなやつあるいは競技としての体操ーフェアリージャパンとか内村航平とかーなのだと思っている。
体操としての要素はどこにあるのだろうか。しかも組て。失敗したら連帯責任みたいな。5人組か。
そして、園児たちの真剣な、というよりはしかつめらしい顔。僕らは子供達の笑顔が見たいんだ。張り詰めた空気なんかいらない。楽しんでいる姿が見たい。とうちゃんかあちゃんじいちゃんばあちゃんみんなが笑えるものであるべきだ。運動会なんて。
困るのは、ウチの子が来年は年長になることだ。あれをやらされるのか。どこまで介入し反対するべきなのか。悩む。
園の理事長も園長も保育士も一人ひとりはいい人たちだ。基本的に善良であることは間違いない。それでもやはり争はないといけないか。子供達に組体操なんてさせるべきではない、と。
しかしやはり組体操なんて、無意味だし体の出来上がってない子供達にさせるのは狂気
だし集団で熱に浮かされているようで気味が悪い。
どうしたものか。実に困ったものである。