ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

オリンピックでの政治的主張について考える

まず僕は人種差別に反対する立場だということを明言する。

this.kiji.is

一般的に、スポーツの場での政治的メッセージの発信は処罰の対象になる。サッカーなんかだいたいそうだ。

 

上記記事のブックマークもIOCの決定に不満なものが多い。今回はIOCの指針の是非について考えたい。

 

人種差別は政治的メッセージか?

人種差別の解消については本来右だとか左とか、資本主義とか社会主義だとかに関わらない人類共通の失くすべき課題だ。そういう意味では政治的な主張というのが適切か疑問が湧くと思う。

 

しかし、特定の人種が社会の中で不利益を被っているのであればそれを解消するのは法律や行政のシステムなど政治で解決を図ることが主たるものになる。だから十分に政治的だともいえる。

 

やはり人種差別に対する抗議の意思表示は政治的パフォーマンスと捉えて差し支えないだろう。なによりそうしたパフォーマンスを行う人たち自身が政治的な問題と捉えている可能性が高い。行為の意図を理解する必要がある。

スポーツの場での政治的主張

かつてJリーグでストイコビッチが試合中にユニフォームを脱いで「NATO STOP STRIKES」と書かれたアンダーシャツを露出させた。NATOによるセルビアへの反対する意思表示だ。

 

この行為に対してスポーツに政治を持ち込んだとしてストイコビッチはJリーグから注意を受けた。

 

これはユーゴスラビア紛争に端を発したもので、その背景を知らないとよく理解できない。当時は単純にストイコビッチの母国セルビアが悪い、という風潮だったけどもちろんクロアチアをはじめ他の民族もやったりやられたりをしていてセルビアだけが悪いわけではないという見方もあり非常に複雑だ。

 

しかしこうも言える。当時ストイコビッチが所属していた名古屋グランパスのサポーターはピクシー(ストイコビッチの愛称)が正しいと思うだろう。ピクシーがNATOに空爆やめろっつってんならNATOが悪いんだろう、となりかねない。そういう風に思考停止してしまいかねない。特に偉大なスポーツ選手は信仰に似た崇拝を受ける。ある人気選手が「Aだ!」といえばファンは疑いもなく「Aだ!」と追随するだろう。少し賢いファンが「いや、ちょっと待て。本当にAか?」と疑問に感じても、それを口に出すのは非常に勇気がいる。

 

ちなみにユーゴ紛争においてセルビアだけが悪いのかどうかについてはここでは論じない。ただ、アイドルとして崇拝するスポーツ選手が政治的主張をすることの意味にフォーカスしたい。

 

前述したように、自分が応援するスポーツ選手がある主張をした場合に、ファンはその善し悪しについて深く考えないのではないだろうか。無条件に賛成するか、せいぜい‟あえて触れないでおく”くらいに留めるのではないか。

 

しかし例に挙げたピクシーの件で、実際にセルビア軍に酷いことをされた人が見たらどう思うだろうか?また仮にその人がピクシーに異を唱えた場合にファンからいわれのない攻撃を受ける可能性はないだろうか。

良い主張と悪い主張?

IOCの指針に反対の人は、そもそも「政治的主張は常に正しい」という前提に立ってやしないか。

 

競技会場で人種差別に抗議するという政治的主張をしていいのであれば、たとえばスペイン代表として出場したカタルーニャやバスク地方出身の選手がスペインからの分離独立を主張することも認めないといけなくなる。

 

たとえば日本代表の選手が、競技を終えた後に「いまの日本の政治はおかしい!国民が生きるための給付金を一部の企業が食い物にしている!なぜ行政はそんなことを許すのか!」ということも認めないといけない。

 

あるいはロンドンオリンピックでサッカー韓国代表の選手が試合後やったようなパフォーマンスも認めないといけないが、それはいいのだろうか?はたまたゴリゴリのファシストな選手がいて、ファシズム全開のアピールをする…。

 

我々はどうやって「良い政治的主張」と「悪い政治的主張」を分けるのだろうか。そんなことはそもそも可能なのか。人種差別のように全人類共通の課題であればスポーツの場でしても良い政治的主張といえるのか。独立問題や領土問題などの白黒はっきりつけがたい問題は悪い政治的主張として禁ずるのか。それをはっきり色分けするのは恐らく無理だ。となれば恣意的に選別することになる。それは僕には正しくないように思えるのだが。

影響力の強さは諸刃の剣

オリンピックに出場するような選手は国の英雄である。なかでもウサイン・ボルトとか

リオネル・メッシとかマイケル・ジョーダンとかは競技を超越した世界のスーパーヒーローである。彼らの発言の影響力というのはすさまじく大きい。

 

もちろん彼らヒーローたちの影響力が良いことにのみ発揮されればよい。でもヒーローがみな漫画やアニメの主人公のように高潔な人格者かというとそういうわけでもない。ネガティブな影響を与える可能性があることも知っておかなきゃならない。

 

オリンピックという全世界で何億、何十億の人が見る場で、影響力の強い人が政治的主張をすることにはもう少し敏感であったほうがいいと思っている。実際IOCの指針でも競技場や選手村でそうした行為をすることを禁じているのであってオリンピックを離れたところで政治的主張をするのは自由だ。

 

いまはSNSでどこからでも、いつでも発信できる時代だ。選手たちが自分の考えを発信したければ競技場ではなく自宅から行うことだってできるんだ。

 

少なくとも競技においてすべての政治的主張をしても良い、ということになれば好ましくない主張をする選手が出てくる可能性がある。というかそもそも何がよくて何が駄目かを誰がどうやって基準を設けるのかという問題がある以上、政治的主張は禁止、というのは致し方ない措置だと考える。

 

先ほど挙げたスペインの独立問題でいうと、カタルーニャやバスクの人は独立したい、スペインから虐げられているという主張になるが、当然スペイン政府側にも主張があるだろう。影響力のある選手が何らかの主張をすると、その選手のファンは無条件に主張を受け入れてしまうかもしれない。しかしそれは正しいとは言えないだろう。

反対、ではなく改良を

とはいえ、オリンピックのような全世界の人が注目するイベントで人種差別に反対するセレブレーションを、影響力のある人が行うのは賛成だ。

 

おい!と思われるかもしれないが、やはり人種差別はアリかナシかの問題ではないというのが大きい。完全にナシなんだ。少しアリとか限定的にアリとかじゃない。少しでもアリと考えること自体が犯罪だ。そういう、答えが出ている人類の共通課題については限定的に認めるという指針にすればよい。

 

人種差別は政治的主張ではあるけれども、全世界が克服していかなければならない問題なので特例的に人種差別の根絶を訴えるセレブレーションは認めるよう指針を変えればいいのではないか。

 

世界は0か1かではないし、少しづつでも改良し前進することはできる。

オリンピックがそういうことを実践する場になることを切に望む。

オシムの言葉 (集英社文庫)

オシムの言葉 (集英社文庫)

  • 作者:木村元彦
  • 発売日: 2015/03/13
  • メディア: Kindle版