ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

上智大学のセクハラ問題について考える

上智大学の教授が、自身が指導する学生から「性的関係を強要された」として訴えられているという報道があった。時にはラブホテルで論文指導をすることもあったという。果たしてこれはセクハラ(もしくは性犯罪)に該当するのだろうか。考えてみた。

セクハラと断定するのは早計

現時点でセクハラ(性犯罪)だと断定するのは早計だと、僕は考える。

 

セクハラに関する誤解については何度か書いたことがある。世間でよく考えられているセクハラは「行為を受けた側がセクハラだと感じたらセクハラは成立する」というものだ。これは半分正しく、でも半分は間違っている。

 

なにがしかの行為を受け「私はセクハラをされた」として訴え出ることは可能である。例えば会社で同僚から肩を叩かれ呼び止められたとする。この時同僚側に積極的に身体接触をしたいという意思があろうがなかろうが肩を触られた人が「セクハラだ」と感じたのであればそれを各所に訴えることができる。

 

逆に言えば同じ行為をされても相手との普段の関係性によってはセクハラと受け止めなかったりすることもある。肩を叩いてきたのが仲の良い同僚であれば単なるコミュニケーションの一環としてスルーされる。

 

そして仮にセクハラだ、と訴えたとしてもその時点でセクハラとして確定するわけではない。最終的にセクハラだと確定するのは司法の場で、ということになる。もちろん裁判まで行く前に行為者が「セクハラの意図があった」と認めて和解することもある。いずれにしろセクハラ行為を受けた人が「セクハラがあったと感じた」その時点でセクハラが本当にあったと確定するわけではない。

 

セクハラだとして訴えることはできる。しかし訴えた時点でセクハラが確定しているわけではない。これが「行為を受けた側が感じたらセクハラは成立する」というのが半分は正しく半分は間違っている理由だ。

 

だから上智大学の件でもこれから裁判が展開されるわけなので現時点でセクハラかどうかは断定できないというわけだ。

人間は複雑なもの

しかしネット上の意見(主にツイッター)を眺めてると、現時点でセクハラだと断言している人が多くて驚く。そしてとても危険な行為だと感じる。

 

危険な理由その1。もしも今後裁判で「セクハラではなかった」と裁定された場合どうなるか。訴えられている教授から名誉棄損で自分自身が訴えられる可能性が出てくる。ネット上の誹謗中傷に対しては社会的関心が高まっているし、法整備もこれから進められていくだろう。現時点で罪科が確定していないものに対して報道された材料だけで断定してまるで犯罪者であるかのように意見表明するのは危険な行為だと思うのだけど。そして仮に裁判でセクハラが否定された場合に、現在この教授に対して性犯罪者であるかのように書いている人たちは謝罪・訂正・コメントの削除などをするのだろうか、とも思う。しない人のほうが多いんじゃないかな。

 

危険な理由その2。この教授に対して「セクハラだ」と断定している人たちは教授と学生という関係性からセクハラであるに違いない、と言っている。確かに指導する側とされる側という力関係はある。教授の差配によって学生の研究所生活が左右されるのだから優位性が十分にある。しかし一方でこの教授が主張しているように優位性が存在する関係でありながら自由恋愛が成立するケースも世の中には当然ある。例えば会社で上司と部下が付き合ったり結婚したとする。それらはすべて力関係を背景に関係を強要したことになるのだろうか。

 

そんなバカな。もちろんそうしたケースはある。優位な立場にある者が、力関係をちらつかせ関係を迫ることは多々ある。しかしすべてのケースがそうだとは断言できない。それはあまりにも人間関係というものを単純化しすぎだ。力関係の優位性があること、それと同時に自由恋愛が成立することは両立しうる。人間というのは複雑なものである。

自分の経験ですべてを理解するのは不可能

上智大学のセクハラ問題について、現時点でセクハラだと断定する人の中には自身の大学・大学院での経験をもとに「これはセクハラに違いない」と言っている人たちがいる。これもどうだろうか。この人たちが学生の時にセクハラだと感じて不快な思いをしたことを僕は否定しない。なにをもってセクハラだと感じるかはその人次第だから。そこを無関係な僕がどうのこうのいうことはできない。

 

しかし一方で、自分の経験だけで世の中すべてのことをわかったつもりになることは少々危険じゃないだろうか。上司部下、教師と元教え子などの恋愛をすべて「これは優位性を背景に関係を強要しているに違いない」と言っている人がいたら、すこし頭おかしいのかもと思ってしまう。まあさすがにそんな人はいないでしょうけど。

 

経験というのは大事だけど、何かを判断するときに自分の経験だけを頼るのはよくない。ビスマルクが言ったとされる言葉がある。賢者は歴史と経験に照らし合わせて判断するが、愚者は自分の経験だけで判断するとかそんな意味合いの言葉だ。これはその通りだろう。世の中のすべてを網羅できるほど賢い人間はそうそういない。自分を過信するのは大けがの元である。

上智大学の対応について

上智大学の対応について問題視する人がいる。現時点での上智大学のコメントは以下のとおり。

www.sophia.ac.jp

僕は大学側も現時点ではこれ以上のコメントは出せないと思っている。

 

もっと踏み込んで「セクハラは許さない」とか「当該教授を懲戒処分にしないのはなぜだ」という人がいるが、それは無理だろう。

 

上記のように今の段階では本当にセクハラであったかどうかは断定できないのだ。推定無罪の原則から言えば大学側がこの教授に対して何らかの懲戒処分を行うことは難しい。せいぜい世間を騒がせ大学の業務に支障をもたらしたことに対するけん責処分くらいじゃないかな。

 

もし上智大学が今の段階で教授にセクハラ行為があったと断定したり、それを理由に何らかの処分をした場合で今後の裁判でセクハラが否認されたりしたら、逆に大学が訴えられることになりかねない。そんなリスクは冒せないだろう。

アカデミックハラスメントについて

アカデミックハラスメント、なんていう言葉ができるくらいだから教育の場で教師と生徒という力関係を背景にしたハラスメントがあるのは間違いがない。そのことはこれからも是正していくようさまざまな教育機関で教師・職員への教育が必要だろう。

 

今回のケースもセクハラが認定される可能性は決して低くはないと思う。もちろんその逆になる可能性もあるけど。

 

セクハラにしろパワハラにしろその他のハラスメントにしろ見たまんまその通りにすぐに判断できるケースばかりではない。やはり個々のケースごとに丁寧に見ていく必要がある。少なくとも報道された内容だけで決めつけてしまうのはとても危険な行為だということは知っておきたいところである。