もしかしたら僕は少し鈍感だったのかもしれない。あるいは傲慢だったのか。
相模原の事件で19人もの障害者の方が憎むべき事件の犠牲となった。
障害者の方達が肩身の狭い思いをせずに、ごく当たり前に生活できる社会であって欲しい。健常者が障害者の方達に対して当たり前のように配慮できる社会であって欲しい。僕はそう思います。
でも、もしかしたら僕は鈍感なのかもしれない。あるいは傲慢なのかもしれない。
東日本大震災の時にビートたけしさんが言った言葉を思い出した。
「2万人の人が犠牲になった事件が一つあったんじゃない。1人の人間が犠牲になった事件が2万件あったんだ」
この事件では19人の障害者が犠牲になった。
いや、1人の障害者が犠牲になった事件が19件あったと言うべきなのだろうか。
それも違う気がする。
この事件の被害者は障害者である前に僕らと同じ1人の人間だ。
もちろん、犯人は「障害者」に狙いを定めて犯行に及んでいる。現に施設職員は拘束されただけで、外形的な危害は加えられてない。
しかし僕まで「あぁ、犠牲になったのは障害者の方なんだね」で済ましてしまっては、結局のところ加害者と同類になってしまい、そもそもこのような事件が起きてしまった背景を理解できなくなるんじゃないだろうか。
今回被害にあった方達を当然のように「障害者」と言い切ってしまう根拠は何だろう。
障害者手帳の有無?行政の判定基準?世間的な慣行に基づく予断?
人が人を裁けないのと同じように、人が人を区別することは本当に可能なのだろうか。例えば僕が障害者ではない根拠って何だ?
人間というくくりの中に、「障害者」と「非障害者」なんて区別があるのだろうか。
それは本当に根拠のあるものだろうか。
この事件は19人もの人間が犠牲なった事件であるという前提を省略してはいけないだろう。
障害者を狙った特別な事件であって、どういう根拠か分からないが社会的には健常者とされている僕は「かわいそう」と同情するのが正しい姿勢か?
それとも人間を簡単に何の根拠も無く区分し差別し勝手に憎む、そんな人間がいることへの恐怖を感じるべきなのか?
この事件の被害者を障害者というくくりでしかみられないのなら、案外今回同様の事件は今後も起き続けるのではないか。そのことにもっと、僕は危機意識を持った方が良いのだろうか?
“19人の障害者が犠牲になった事件じゃない。19人の人間が犠牲になった事件なんだ”