ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

オリラジ中田さんに見る「正義の押し売り」の危うさ

オリラジ中田さんのベッキーさんに対する発言が反響を呼んでいる。

不倫騒動に対してベッキーさんが週刊文春に手紙を送ったことを「あざとい」「不誠実でずるがしこい」と批判したことが発端だ。これに対して「そこまで言うか」と非難を受けたけど自説を曲げる気はないとしている。ネット上では「よく言った」「正論だ」と好意的に受け止められている。逆にベッキーさんを擁護する意見は叩かれる。いや、叩かれるというもんじゃない。ほとんど憎悪の対象だ。ベッキーさん本人となればもうほぼ犯罪者扱いだ。

 

僕個人としてはもちろん不倫は良くないことだと思う。

元々のイメージが良かっただけにダメージは大きい。さらに初期対応はお粗末だった。特に例のLINEと記者会見は回復不可能なほどの甚大なダメージをもたらした。それでも早期に誤りを認めて謝罪していればだいぶ変わったとも思うけど。なのでベッキーさんがある程度叩かれたり仕事が減るのは仕方ない面がある。

それでも、と思う。

彼女はここまで叩かれなきゃならないのか?

 

中田さんはベッキーさんを批判する自身を「芸能界では少数派」と言っているが、逆に言えばネット上を中心とする一般意見の中では多数派だ。彼もそれは分かってるだろう。そしてネットを味方につけることの重要性も分かっているのだろう。昨今芸能界といえどもネットの意見を無視できないものになっている。好感度が高ければ仕事に繋がる。頭のいい彼がそこに気付かないはずはない。ましてや彼の奥さんは以前にその発言が炎上し、何を言っても叩かれる状態になった。本当は自分は多数はと分かった上であえて「自分は少数派」と言うことで一気にネットを味方につけた。その意味では彼の言動に僕はあざとさを感じる。

さらに自説を曲げない理由を「ベッキーさんによって傷ついた人がいる。その人のためにも自説を曲げられない」と語っている。自己の利益ではなく他人のためという大義名分を掲げている。しかもその他人は弱者と見られている。ご立派だ。これが本心からなら。でもそうすると、今後同じような問題が起きたときに同じような反応をする必要がある。例えば事務所の先輩だとか大御所だとかの場合はダンマリだと却ってネットの反感を普通以上に買うことになる。何だ叩きやすいところを叩いてただけか、と。その意味で彼の正義は危ういバランスの上に立っている。

 

まぁそれはいいんです。それは中田さんの問題なので。

問題は「正義の押し売り」について。中田さんの場合はなんだかんだ言って同じ芸能界の人間。もしベッキーさんが公式に謝罪して真摯に反省した上で復帰すればまた仕事をするのだろうし、と言うことは許して受け入れる準備があるということだろう。

でもネットを中心とする一般意見はどうなのか?おそらく許されることはないだろうね。先日ダウンタウンの松本さんが言っていた。そもそも批判する人の大半はそもそも怒ってない人たち。だから許すなんてことはないし、ずーーっと言われる、と。

これは凄く怖い。しかも叩く側に「正義は我にあり!」という感じだ。正義は自分にあるのだから当然反論は許さないというね。こうなるとほとんどファシズムだよ。しかも倫理的に問題があるから叩くというよりはただ叩きたいから、憂さ晴らしのために叩くという雰囲気なんだよね。極端に言えば仮にベッキーさんがあまりの世論の反発に心を痛めて最悪自死をしたとしても今叩いている人たちは自業自得、とかざまーみろとしか思わないんだろう。

集団ヒステリー、集団イジメだ。

 

近年ネットを中心に「許し」がどんどん減っているように感じる。少しでもミスすると死ぬほど叩かれる。社会に余裕がないのだろうか。「許し」とは許される側から見れば「救い」である。今は救いのない社会となっている。

正義を掲げるのは確かに気持ちが良い。全能感を得られる。自分は非難されることの無い場所に立って他人を思うままに批判する。神か。しかし古来神になろうとした人間は不遜と見なされ神によって罰を与えられた。模擬神による正義の味方ごっこもいずれしっぺ返しがくるだろう。

 

ほんのちょっとの許しで誰かが救われるのならその方がいいに決まっている。

僕は救いようのない社会なんて絶対にイヤだ。息苦しい。いやそれ以前に僕自身が誰かを無条件で批判できるような人間じゃない。

 

正義の押し売りが是とされる社会の行き着く先は他人がミスするのを待ってる(批判したい)そんな下衆で下世話な社会である。とても高度な文明社会とは言えないな。