香川大の教授が「趣味はセクハラ」と公言し炎上しています。
どうやら表現の自由を守るため、という大義のもと趣味はセクハラと公言するに至ったようです。
で、この三原麗珠という教授のツイッターを覗いたら、まあ気持ち悪い(笑)
そして言い訳が多い。
自分は悪くない、他人が悪いのオンパレード。
ただの病気なんだろうな。
こんな気持ちの悪いクソヤローのことはもう触れるのも汚いのでここまでにしときますが、一連の議論の中で気になったことがあります。
それは「セクハラしたい」と公言するのはアウト、「セクハラしたい」と心の中で思うのは自由って考えの人が一定数いることです。
香川大のキモイおっさんもツイッターで呟かなければオッケーだったのに、みたいな。
うーーーーーん。
誰かに危害を加えたい、不快な思いをさせたいっていうのは実行に移さない/公言しないなら法に触れないってゆうのは確かにそうかもしれないけどさ。
でもその前に人としての志みたいなものがあるじゃん?社会で生きていく中での規範とか。日本風に言えば恥の文化とか。
モラルの高い人間はそもそも「セクハラ好き、気持ちいいじゃん」なんてことをそもそも思わないわけですよ。そんなこと思うこと自体が恥ずかしいって。そういうことを幼いころからモラルとかマナーとして教わってくるんじゃないの?
ま、そうはいっても完璧な人間などいません。たとえば「いやぁ恥ずかしいんだけどオレそういう性癖なんだよね」って恥ずかしそうにしている分には理解できます。実際僕もそうだけど、そんな聖人君子じゃないからね。イライラしたりムラムラしたりすることはありますって。
だけど、仮に「アイツムカつく」とか「アイツ犯して―」とか心の中で思ってもそれは自分の中のどす黒い部分だよねーって自覚は必要だと思う。
それすらなく「心の中で思う分には自由」ってなっちゃうと正直言ってコワイ。
そういう感覚って何かのきっかけで容易に行為に移行するんじゃないだろうか。
たとえば街中を歩いていて人とぶつかった場合に「ふざけんなよぶんなぐってやろうか」と一瞬思っても、「まぁお互い様かもしれんよな。相手も同じように考えてるかもしれんし」と他者の心情を考慮すれば怒りも和らぎます。
会社だの飲み会だので女性と接したときに「セクハラしてぇ」と思っても「普通に嫌がられるだろう」と考える。
こうして自分と他者の存在を意識することで恥とか規律とかの意識が呼び起こされる。
でも「心の中で思う分には自由」とやらには他者が出てこない。
そこが怖い。法律的に見て良いか悪いかだけが判断基準だとしたら、法律のタガが外れた時は何やっても良いということにならないのか。自分の中に「それをやっちゃぁお終いよ」というものがない。
絶対ないことだろうけど、法律が人を殺してもおとがめなしと変わったらどうするんだ。心の中で思う分には自由だが法律的にはNGな案件が、法律的にもOKとなった時に人はどうするのか。
「心の中で思う分には自由」と思っていると行動へのハードルは恐らく低くなる。「心の中で思う分には自由、だけどちょっと恥ずかしいよね」くらいでないと人間っていうのはたくさんの欲があって煩悩にまみれているから負けてしまう。
表現の自由は大事かも知らんけど、他者の「キモチわるいおっさんが表現の自由として発するセクハラ発言からの自由」も大事にしなきゃならんやろ。
そして「心の中で思う分には自由」とやらよ。そこまで自分を甘やかして大丈夫なのか。自分は「心の中で思ってるだけ」で留まれるほど徳の高い人間か。
僕はそんな修行を重ねた高僧のように自己の内面に絶対の信頼は寄せられないので心に常に恥を携帯していようと思う。