ジンジャーエール

辛口エールで一杯ひっかける

終わりなき闘い~プロブロガーとかの割とどうでもいい話~

最近はてなブログを見ていると色々と騒がしいですね。プロブロガーについてのあれやこれやで百家争鳴状態。中にはかなりキツい言葉で自分と意見の合わない相手を罵倒しているのもあります。あるいは「我こそは神!」的な、自分の考えは絶対で、反対意見は全部間違い!と息巻いているものもあります。いや、ブログなんて絶対的に私的な空間なのでそれはそれでいいのですが。ていうかそもそも僕はこういうことに首を突っ込んであーだこーだ披露するほどの知見があるわけでもないけどそれでもちょっと一言いいかな?と思ってこの記事を書くことにしました。

 

ある一冊の本を読みました。

オシム 終わりなき闘い」(木村元彦著:2015年、NHK出版)

オシムとはイビッア・オシム。旧ユーゴスラビア出身。サッカー元日本代表監督。指導者として世界中で輝かしい実績を残し、また含蓄ある言葉で70歳をとうに越えた今なお尊敬を集める“賢者”。僕がとても尊敬する人です。そして著者は木村元彦氏。これまた僕が尊敬し読むべき価値ある本を世に送り出す“本物のジャーナリスト”。代表作に「オシムの言葉」(2005年、集英社インターナショナル)など。特に元日本代表の我那覇和樹選手のドーピング冤罪に対する苦闘を描いた「争うは本意ならねど」(2011年、集英社インターナショナルは1家に1冊の必携書。ちなみに僕はここのところ本漁りというともっぱら図書館で、ということになってます。図書館で借りて読み手元に残しておきたい本だと思ったら買います。「争うは~」は買うべき本です。2冊。1冊は自分用、もう1冊は知人にお薦め用。

話が飛びました。「オシム 終わりなき闘い」です。

旧ユーゴから独立したボスニア・ヘルツェゴビナが舞台です。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ | 外務省(外務省HPより)

 

いまいち馴染みのない国ですが、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件、あのサラエボが首都といえば何となくイメージが湧くかもしれません。(オシムさんもサラエボの出身)あ、あと紛争後のインフラ整備で日本も様々な援助、支援をしたようで日本に対して良いイメージを持ってくれてる人が結構いるみたいですね。本書にもそういう場面が描かれています。僕が何かをしたわけではないので図々しい話だけどちょっと誇らしく思いました。

さて、独立の過程においては血で血を争う凄惨な内戦がありました。セルビア系住民(東方正教会)、クロアチア系住民(カトリック)、ムスリムイスラム教)と異なる民族、異なる宗教の人々が今までは共存していました。しかしいざ独立となると自民族の権益を守るためあるいは権益を拡大するため、隣人に銃を向けたのです。隣人が、同僚が、クラスメートがある日を境に“敵”になったのです。この辺りのことについては書き出すと長くなるのでここでは省きます。

 

本書では独立後も主要3民族がそれぞれ権益を主張しサッカー協会も3民族の代表が交代で会長に就くなどいびつな運営をFIFAから咎められ、国際大会への参加資格停止という事態みみまわれたボスニア・ヘルツェゴビナで、オシムさんを中心に設置された“正常化委員会”が少なくともサッカー界においては(ひとまず)民族的和解をなし2014年ブラジルW杯ボスニア・ヘルツェゴビナが初出場を果たすーーその苦闘や交渉の裏側等が描かれています。

 

プロブロガーやフリーランスへの是非やらなんちゃらの非難の応酬に戻ります。

僕は別に「みんな仲良くしようぜ!」なんて博愛主義者を気取るつもりはありません。自分の主張というか、生き方があってそこに譲れないものがあるのなら時には闘うことも必要だと思います。

 

そうそう闘うと言えばーー

hatenablog.com

 知ってる?情報感度の高い人はみんなやってるよね(適当)

まだ知らないという人は四の五の言わず入部したらいいんじゃない?(適当)

記事を書くモチベーションや人のブログから刺激を受けたい人などにお薦め。

以上、宣伝だよ。

 

話があちこち飛んで申し訳ないです。

で、僕が感じたのは世界の中でこんだけ苦難を乗り越えてる人たちがいて、それに比べてプロブロガーガーとかなんとかの批判合戦って「小せぇーな、オイ!」ということと「平和だね(笑)」ということです。

彼らは自分が世界の中心(あるいは世界の上から見下ろす神的なものに擬態)であるかのように吠えていますが、実際はちっさいちっさい存在です。世界の端っこもいいとこなんです。それはもちろん僕もそうなんだけど。何もブログは高尚なものを書くべし!なんて思わないし、むしろ日常の些細なことや(他人にとっては)どうでもいいことや下世話なことなど書きたいことを書きたいように書かないと楽しくないと思う。それはそれでいいんだけどさ。少なくとも他人を傷つけるような表現ってどうかと思うんですよね。それって自分がホントは弱くてしょーもない人間であることを世に向けて発表してるだけだよ?って。自分が傷つけられるのが嫌だから先制攻撃しとけ、反論異論は受け付けねぇ、って。それを自覚しつつ書いてるんならまだしもほとんどは自分が絶対的に正しいと思い込んで譲らない。

 

で、同じように自分たちが絶対正しいと思ってる相手にオシムさんはどう説得したのか。もちろん素晴らしい知性の持ち主で、自分の言葉を持ってる方なので色々な話もしたでしょう。しかしそれよりも相手の話を聞き、理解するよう努める丁寧な姿勢が本書から窺えます。

僕自身様々な方にお会いする中で、本当に偉い人物(ただ単に高い地位にいるという意味ではなく)ほど丁寧で低姿勢だと気づかされました。(だから逆にコワイ)対して大した知識や経験がない人ほどそれを隠そうと必死になって吠え立てます。でもすぐバレちゃうんですね。ボロが出る(笑)ある意味可愛いです。

 

みんながみんな仲良く何か変に気を使いあってっていう世界はそれはそれで面白くない。ぬるい。時にはバチバチやり合うことも必要だ。ただ自己顕示欲を剥き出しにしてエゴを投げつけ合うというのはちょっと…ねぇ?

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ代表がFIFAの制裁が解除され国際舞台に復帰したときやW杯の出場を決めた時もその過程でオシムさんの力が無ければほぼ不可能だったと誰もが知ってるが当の本人は「自分は何もしてないよ」と恬淡としている。相反する他人のことを想像するほんの少しのきっかけを作ったに過ぎないと。

単純にそういう人を「すげぇかっこいい!」と思いませんか?

 

確かに何かに喧嘩売って注目されて炎上して信者もできてって手っ取り早く自己顕示欲を満たせるし気分も爽快かもしれない。でもすぐ廃れるよ。持続可能な炎上ライフとか無理でしょ。

実生活でもやたらめったら攻撃的な人間や冷笑的な人間って最初は同じグループ(会社とかサークルとか友人とか)にいても気づいたらいつの間にか居なくなってるよね。自分を受け入れさせたいなら同じように自分も他人を認め、受け入れる勇気を持たないと、と思います。そして足るを知るということも必要だ。貪欲さが過剰を産むことになる。

 

「オオカミは満腹で、羊は数がそろっている」(イビッァ・オシム